IRISH-ON-FILM INDEX


ロリー・ギャラガー アイリッシュ・ツアー1974 Irish Tour '74
1974年/2000年 イギリス 83分
トニー・パーマー監督 ロリー・ギャラガー ジェリー・マカヴォイ ルー・マーティン ロッド・ディアース ドナル・ギャラガー トム・オドリスコール

*この項目は2007年1月に内容を整理し、ロリー・ギャラガーのために新たにインデペンデント・サイトを立ち上げました。
Checker & Blues: a small site for Rory Gallagher (www.ne.jp/asahi/checkerandblues/rory/)

ドネゴール州バリーシャノン生まれ、コーク育ちのブルース&ロックミュージシャン---「アイルランド人で最初のロックスター」ロリー・ギャラガー(ウィリアム・ローリー・ギャラガー、1948-95)は、15歳の時に生涯使い続けることになる中古の61年型ストラトキャスター(フェンダー社の記録によればアイルランドに初出荷のストラト (Tom Wheeler, The Stratocaster Chronicles, Milwaukee 2004))を買って地元のショーバンドに加入。ジミ・ヘンドリックスに触発されたと思われる3人編成のグループ、テイストを組み、レコード会社には「クリームの再来」として売り出された後、1971年ソロに転向。フェスティバルや音楽番組出演、ギグや比較的小さな会場でのライブ中心の活動を続け、イギリスやドイツをはじめ欧州各国に根強いファンを獲得し、ブルースロックの分野で数年先行したエリック・クラプトンが「ギターの神様」と呼ばれたのに対し、「ピープルズ・ギタリスト」「ワーキングクラス・ヒーロー」と慕われた。(かつて日本のギターフリークの間でも「クラプトン派かギャラガー派か」という時代があったようだ。)だがライブに比べてスタジオレコードの評価がイマイチだったことや、「ヒットチャート男」に終わることを嫌ってシングルを出し渋るなど「レコードが売れるより、客の前で自分の好きに演奏したい」という姿勢を貫き、レコード会社としばしば軋轢があったせいか、80年代に入ってU2等アイルランドの後輩ロックバンドに道を拓きながら、自身はレコード売り上げが低迷。また70年代後半から飛行機恐怖症、不眠、不安、体調不良を訴え、それをごまかすための習慣的飲酒と薬(コカインやヘロインではなく精神安定剤、睡眠薬、鎮痛剤など医者の処方薬)の乱用が始まる。特に74年の日本ツアー直後のアメリカツアーで始まったという飛行機恐怖症はライブツアーが身上のロックスターにとって致命的ともいえるが、それを理由にツアーを減らそうとはしなかった彼は酒の力を借りて飛行機に乗っていたようで、空港でファンやプレスに目撃される彼の姿はいつも酔っ払っていたので「アルコール依存症だ」と評判が立つことになってしまったのだろう。実際には安定剤の乱用の方が心身へのダメージが深刻だったようだ。それでもなおステージやインタビューなど人前では醜態を晒さず紳士的にふるまいトラブルを起こさなかったので、アルバムリリースが途絶えがちになった80年代後半以降は、アメリカや日本など遠い国のファンにはスキャンダルが伝わるでもなく、次第に忘れ去られていった感がある。ロンドン市内のフラットやホテルを転々とし、何人か交際した女性はいたらしいが一度も結婚することなく、音楽とライブに身を捧げたあげく、1995年1月オランダツアー中に倒れ、4月にロンドンで肝臓移植手術を受けたが合併症を起こし、6月に47歳で死んだ。
このドキュメンタリーは、人気・実力とも絶頂期の1974年1月、ベルファストのアルスターホール、ダブリン・カールトンシネマ、コーク・シティホールでのライブシーンと、アルスターホール楽屋でのシーン、コークをはじめアイルランド各地の街角でのシーンなどを編集したもの。当初テレビ用の企画だったが劇場公開用として完成した。ローリー自身の独白で綴る構成で、ステージよりもアイルランドの街角や風景(わざわざブラーニー城まで訪れる)の印象が勝り、ライブ場面も良いとこ取りのつなぎ合わせ編集で映像と音が合っていなかったり、彼の音楽のファンには少し物足りない。だがDVDの副音声には当時の楽器と機材に関するドナル・ギャラガーとジェリー・マカヴォイの会話が収録されていて、興味がある人には面白いだろう。日本でも自主上映されたことがあったそうだが、マネージャー/プロデューサーの実弟ドナル・ギャラガーの管理で長年門外不出になっていた。(ドイツのテレビから録画ダビングを重ねたと思われる、あるいは映画館でスクリーンに映写されたものを客席から隠し撮りした8mmフィルムから起こしたのかもしれない、ドイツ語字幕付きの悲惨な画質の××ビデオ「Tour Documentary Rory Gallagher On」を、私は1996年頃に西新宿で発見して秘蔵していたりするんですが。)ドナルのプロデュースで2000年に日の目を見たものは、1974年制作当時と基本的には同じものだが、「Cradle Rock」が追加され、さらに最終シークエンスに「指輪の落し物」のアナウンスが付け足されている。またDVDはボーナストラックとして、本編収録直後の同年1月の初来日、東京・中野サンプラザ(?)の楽屋で、ドナルが遊び半分に撮って編集したと思われる8mm映像も入っている(これは日本発売盤だけでなく欧州盤にも入っているそうだ)。ローリーは楽屋やコーク市内の楽器店で気軽に、ボトルネックの使い方やピッキングのコツを指南したりする。またDVD副音声ではドナル・ギャラガーが、アメリカの自動車王ヘンリー・フォードの祖父がコーク出身で、フォードの組立工場がコークにあって当時最大の雇用を生み出していたこと、「Souped-Up Ford」がそれを歌った曲だったこと、工場閉鎖にローリーが怒ってこの曲をアルバムから削除すると言ったことなどを語る(「Goin' to My Home Town」でも「ヘンリー・フォードの仕事にありついたけど…」と歌っている)。
カメラはベルファストの街角にも出、北アイルランド紛争の投石や放火あるいは銃撃でボロボロになったドックストリート付近の家並も、わずかな時間だが記録している。紛争をテーマにした映画でも実際にベルファスト・ロケで撮影されたものはほとんどなく、報道やドキュメンタリーフィルム以外で紛争ピーク時のベルファストの街路を記録し、メジャー公開された映像は珍しいのではないかと思う。アルスターホールのライブを終えた直後に楽屋で、ツアーマネージャーのドナルが「この情勢(紛争激化)になってから、ここでロックをやったのは初めてだそうだ。ローリーが来ては危ないと言われたが、来て本当に良かった。ベルファストの客は最高だ。これからは他のバンドも来るようになるだろう」と話すシーンがあるが、もしかしたらこれは言わされたセリフかもしれない。というのは、テイスト(アルバムデビュー前のオリジナルメンバー)時代に彼らはベルファストに住み、ヴァン・モリソンが紛争を嫌ってロンドンに去った後のメリータイム・クラブで演奏を続けている。その後74年以前にもクリスマス時期の里帰りツアーの度にアルスターホールを使っている。アルスターホールはもともと有名な説教師イアン・ペイズリーの牙城でプロテスタントの聖域、ホール前の道は別名「爆弾通り」だった。だがローリーのバンドがここでライブをするようになり、プロテスタントとカトリック両方の若者が入り混じってぎっしりの建物をIRAは攻撃できなくなった---という伝説(フォーク・レジェンド)が生まれた。ローリーが「ワーキングクラス・ヒーロー」と言われたゆえんだ。オリジナルメンバーのテイストはローリーだけがカトリックで、あとのふたりは同じコーク出身でもプロテスタントだったという(Jean-Noel Coghe, Rory Gallagher: A Biography, 原著は仏語でベルギー出版、英語訳はDublin, 2002)。---その理由は何となくわかる。当時カトリック教会はロックを「悪魔の音楽」と敵視していたので、カトリックの家庭からロックミュージシャンは出にくかったのではないか。
ローリーの父ダニエルは北アイルランドのデリー(ロンドンデリー)出身のカトリックで、ダンスバンドのアコーディオン弾きだったが昼間はバリーシャノンの発電所ダム建設現場で働いていた。父はダム完成と同時に失業、一時デリーに戻った後、一家は母モニカの故郷コークに移転したが、何年かして父は蒸発してしまったようだ(ローリーの怒りにまかせたような激しいマンドリン演奏で有名な曲「Going to My Hometown」は、ヘンリー・フォードの町つまりコークから逃げ出して故郷に帰ろうとする男が、列車の切符を1枚しか買わなかったからお前を連れては行けないよ、俺ひとりで帰るんだ、あばよベイビー・・・と妻だか恋人だかに告げる内容の歌詞だ)。兄弟はクリスチャンブラザーズ(キリスト教修士会)経営の学校にかよい、1週間続く学芸会で最初の3日間ローリーはカウボーイソングのようなおとなしい曲をギター演奏した。4日めに映写機が故障したか何かで教師(修道士)がローリーに「何でもいいからお前の好きな曲を弾いて時間を稼げ」と命令し、ローリーはいきなりロックンロールを弾いて修道士につまみ出された。その後も在学中に夜フォンタナというショーバンドで働いていることが修道士にばれてローリーは体罰を受け、それに怒った母モニカは進歩的な教育者で後のコーク市長ピアース・レアヒーの学校に「息子のミュージシャンとしての活動を妨げない」という条件で転校させた。バンドのツアーで授業を欠席がちだったローリーにはたくさんの宿題が出され、バンの後ろに積まれたギターアンプが彼の勉強机だったが、結局は16歳で卒業試験を受けて(合否は不明)学校に行かなくなってしまったようだ(Coghe 上掲書、および Daniel A. Muise, Gallagher Marriott Derringer & Trower, Their Lives and Music, Milwaukee 2002)。ローリーの退学の理由には、「髪を切れ」という修道士の命令に従わなかったからとの他説もあり、インパクトという人気ショーバンドの一員として、彼はRTE(アイルランド国営放送)のテレビに1965年に登場したアイルランド人で最初の長髪の若者だったそうだ(ビートルズやローリング・ストーンズは既に知られていた)。
彼はテイスト時代にブリティッシュ・ブルース界のアイコン、アレクシス・コーナーに気に入られてその後も何度かギグをした。アレクシス・コーナーが英国に登場した頃は「黒人音楽であるブルースを白人がやれるのか?」という疑問が論じられたが、エリック・クラプトン(クリーム)やピーター・グリーン(フリートウッド・マック)の勢いがその疑問を覆した(「レッド・ホワイト&ブルース」参照)。だが若く威勢のよい3人組のテイストが地方都市ベルファストから躍り出ると、今度は「ブルースはロンドンの人間でなければわからない」「アイルランド人にできるはずがない」みたいな同業者の拒絶反応に近い雰囲気がローリーの行く手に立ちはだかったという。だが火の玉のようにブルースを演奏するローリーのライブに聴衆は熱狂し、メロディーメイカー誌の1972年ベストギタリスト投票では彼はエリック・クラプトンを下して1位にもなっている(理由は単純だ、クラプトンより俺の方が圧倒的に数多くのライブをこなしていたからにすぎない、とローリー自身は後年言ったようだ)。彼は70年代半ばまでに、マディ・ウォーターズ、アルバート・キングといった大物黒人ブルースマンの“ロンドン・セッション”アルバムにも参加し、ロックビジネスではローリング・ストーンズやディープ・パープル加入の可能性も報じられるに至った。「ザ・コミットメンツ」の原作者ロディ・ドイルが映画化(1991年)にあたり、かつては世界中をツアーして大物とセッションしたという栄光を引きずる、忘れ去られた中年トランペッター、ジョーイ・フェイガンの役で、ローリー・ギャラガーを使いたいと希望したといい、実際ローリーの手元に脚本が届けられたが、ローリーはそれを読み、セリフに汚い言葉が多いのでいやになって捨てたらしい。周囲の者は彼が罵りの言葉に神の名を使ったり「fuck」「shit」「bloody」などの語を口にしたのをほとんど聞いたことがなく、ジェリー・マカヴォイは自伝(後述)で、20年間に一度だけローリーが腹立ちまぎれにレコード会社の連中のことを「bunch of shit」と言って直後に謝ったのを聞いたことがあるだけだと証言している。
ベースのジェリー・マカヴォイは1951年ベルファスト生まれ、父と祖父はカトリックで元IRAメンバー、中学の同窓生には後にメイズ刑務所でハンガーストライキ死したIRA闘士もいたといい、70年代に入ると父が爆弾で重傷を負ったり、彼自身も銃撃戦に巻き込まれかけたり、北アイルランド紛争の恐怖と背中合わせのタフな前半生だったようだ。ピアノのルー・マーティンもベルファスト出身。ウェールズ出身の両手利きの傑出したドラマー、ロッド・ディアースは、痩せっぽちの見かけとは逆に最も気性が荒く喧嘩早かったらしく(酒乱ぎみ、コカイン使用の噂も)後にジェリーやドナルによって「ケルト人の血だ」とからかわれている。だが彼は78年にバンド脱退後、86年頃列車に轢かれて頭部にダメージ(記憶喪失、視聴覚障害など)を負う。彼は死んだと思われていたので、96年ロンドンでローリーの追悼ミサに現れ関係者を驚かせた。
ドナル・ギャラガーが後にインタビューに答えて、このドキュメンタリーの多くの部分がヤラセだったことを暴露している。たとえばコーク市内の名門ボートハウスを借りてのツアー打ち上げパーティは、彼らにそんな習慣はなかった(ローリーは社交が苦手だったし、彼らは忙しくてパーティなどやる暇はなかった)が、「ロックバンドは打ち上げパーティをやるものだ」と監督トニー・パーマーに言い張られ、撮影用にわざわざ開いた(Muise上掲書)。それでもこのパーティには地元のトラッドミュージシャンが集まり期待以上のセッションシーンが実現。またジェリー・マカヴォイの“自伝”によれば、彼らがダブリン公演の後グレシャム・ホテルのバーで夜中に飲んでいると(カメラクルーは部屋に引き揚げていたがパーマー監督は同席していたらしい)ダブリナーズのバーニー・マッケンナ、ルーク・ケリー、キーロン・バークが全く予定外に現れ、ローリーを交えて即席のアコースティックギグが始まった。この絶好のセッションシーンをなぜ撮影しないかとジェリーが促すが、パーマーは興味を示さなかったという。
2000年のDVD副音声共演では仲良さそうなドナル・ギャラガーとジェリー・マカヴォイだったが、ジェリーがローリー没後10周年の2005年6月に出した“自伝”(Gerry McAvoy, Pete Chrisp, Riding Shotgun: 35 Years on the Road with Rory Gallagher and "Nine Below Zero", Kent 2005)を巡って、兄や父に関して事実に反する暴露的記述があるなどを理由にドナルが激怒したと伝わる。確かにプロローグから、ローリーは人を苛立たせる頭にくるヤツだった、自分(ジェリー)に向かってローリーが「君は弟以上だ」とドナルの目の前で言ったので自分は当惑した---など挑戦的な書き方も目立つし、ローリー死後のドナルのプロデュースによる新規アルバムリリースや既存全アルバムのリミックス盤リリースへの不満を隠さず、またどういういきさつか巻末の謝辞リストにも、ローディだったトム・オドリスコールの名はあってもドナルの名はない。特に全編にわたり繰り返されるのはジェリーの報酬についての不満だ。ジェリーはこのドキュメンタリーの出演料らしきものを74年当時も、2000年のDVDリリース時にも受け取った覚えがないと主張する。(金のことは彼らにとって大問題。この下の「ワイト島1970〜懐かしきロックの残像」の項参照。)だがローリー・ギャラガーの暴露本という部分を抜きにしても、北アイルランド出身のひとりのフツーの若者の自叙伝として結構面白く読めました。
このドキュメンタリーフィルムとは別の録音を使って同年(74年)に10曲収録の2枚組LPでリリースされ、2005年には日本で紙ジャケCDも出たライブアルバムの名盤「Irish Tour '74」とはまったく別に、多分2000年にドキュメンタリーのDVDがリリースされた直後、そこから音声データだけ取り出したサウンドトラックCDが裏市場に出回ったが、なぜかタイトルは「Songs for Romy」でジャケットにはオーストリア人の映画女優ロミー・シュナイダー(1938-82)の写真。このブートレガーの意図は不明だが、ローリーは相当の映画好きだったことでも知られる。1993年にアカデミー賞作品賞監督賞その他各種受賞した「シンドラーのリスト」について、リーアム・ニーソン(アイルランド人)は良い俳優なのになぜ彼に主演男優賞を与えないのかと、インタビューで不満を述べたりもしている。
なお、ローリーのアイルランド国内でのインタビューとライブシーンを組み合わせたドキュメンタリーは、このフィルムより2年前の1972年にRTE(アイルランド放送)が制作したテレビ番組が存在する(このずっと下の項目、普通の店やアマゾンでは売っていないライブ映像「Live in the Savoy」参照)。

アイルランド人であることについて(インタビューより)
アイルランド出身という事は、あなたにとって重要な意味を持ちますか?「ええ、ある意味ではね。でも、政治的な面ではそうは思いません。個人的に政治に関心はあっても、それを自分の曲にしようとは思いません。ジョン・レノンがそうする能力に恵まれていても、僕はそうじゃない。」(1974年1月24日、東京にて、インタビュアー:吉成伸幸。『ミュージック・ライフ』1974年3月号)
「14歳の時、ある楽団のツアーでロンドンへ初めて行ったんだ。でも、どこの宿にも貼り紙がしてあって“黒人、犬、アイリッシュお断り”だって。疲れきっていたのに休む場所がなかった。こういう経験は簡単には忘れられないよね。差別とか暴力とかは大嫌いだ。」(1994年6月3日、ロンドンにて、インタビュアー:富岡秀次。『レコード・コレクターズ』1994年10月号)
カトリックにはレント(四旬節=キリストの受難を偲ぶために復活祭前夜までの40日間、酒食や歌舞音曲を慎しむ宗教的習慣)というのがあって、昔はカトリック教会の強い影響下にあったアイルランドでは毎年春先のこの期間に国じゅうのミュージッククラブやダンスホールが閉鎖されてしまったため、多くのショーバンドがイギリスをはじめ国外へ出稼ぎに行かざるをえなかった。ロンドンの下町はレント期間中にアイルランド人ミュージシャンでいっぱいになり、彼らはしばしば軽蔑や差別の対象にもなったようだ。
また、初来日プロモーション用に1973年に日本のファン向けに配布された「RORY GALLAGHER NEWS」と題するチラシには、アメリカでのインタビューと思われる記事が転載されていて(手持ち資料のコピーが不鮮明で引用不能、正確には読み取れないのだが)、その中で当時(70年代初期)のブリティッシュ・ロック界で流行していた“コンセプト・アルバム”について問われたローリーは、それに対する否定的な考えを述べる。アイルランドでは7番目の息子のそのまた7番目の息子には手を触れるだけで病気を癒やす力があると信じられていて、自分の「Seventh Son of a Seventh Son」はその話を歌った曲だ。アイルランドにはこの手の民間信仰が数多くあり、それを使った曲を集めて“コンセプト・アルバム”を作ろうと思えば作ることもできるんだが、自分はもっと新しいものを作り出したいんだ、というようなことも言っている。
こういった昔の日本の雑誌やチラシからは、当時の日本人がアイルランドをどの程度に理解していたかもうかがい知れて面白い。上述の1973年のチラシに書いてあることは、「しかし封建的なアイルランドでの生活は彼には向かず、1968年の夏ロリー・ギャラガーを含む3人の若者達はロンドンにやってきました」(書いてある経歴の前後関係にそもそも誤りがあることは今ではわかっているが)。それでいて同じチラシの裏面のインタビュー記事には、休暇にはロンドンから飛行機で1時間もあれば行けるアイルランドによく行くよ、「だって僕の故郷だから。」と書いてある。

その他のライブ映像
*この項目は、主にアイルランドに関係するものだけ残して紹介本数を整理し、ロリー・ギャラガーのために新たにインデペンデント・サイトを立ち上げました。
Checker & Blues: a small site for Rory Gallagher (www.ne.jp/asahi/checkerandblues/rory/)

ワイト島1970〜懐かしきロックの残像 Message to Love: The Isle of Wight Music Festival 1970 BBC等により劇場用に200時間分が撮影されたが、フェスティバル主催者の赤字や紛糾で映画は完成せず、混乱と失敗の記録ドキュメンタリーとしてようやく世に出たのが1995年。ジミ・ヘンドリックス、ザ・フー、アメリカからドアーズ、ジョーン・バエズ等約20組の当時一流のミュージシャンが登場する中、人気急上昇のテイストが「Sinner Boy」を演奏する。フェスティバルがマリファナやLSD、人前で公然とセックスするなど、曲名どおりの「罰当たり小僧」の大集合となったことへの地元の批判---という映画の筋書きの中にこの曲が組み込まれ、全裸の女性の闖入というハプニング映像が無理やり挿入されているが、演奏シーンそのものにも繋ぎ合わせの痕跡がある。DVDボーナストラックにはローリーのソロで「Gambling Blues」全曲収録、こちらは彼の素晴らしいスライドプレイをじっくり堪能できる。ギター(上右の画像、日本盤DVDパッケージ背面の写真は裏焼きで左右が逆)はブロンド(オフホワイト)の66年型テレキャスターで「アイリッシュ・ツアー1974」中の最後の曲でも見られるが、その後移動中に空港で壊され修理に出したら、アイルランド人だからというので勝手に緑色に塗り変えられ、ローリーが怒ってブロンドに塗り戻させたという逸話が残る。
だがこの時既にテイストは壊滅状態だった。テイストは1966年いずれもコーク出身のローリー・ギャラガー、エリック・キットリングハム、ノーマン・デイムリーの3人で始まるが、当時アイルランドは職業音楽家に平等に仕事を割り当てることを目的としたアイルランド音楽家協会(IFM)というものがあって、バンドはメンバー最低人数(5人)、週に演奏してよい日数と時間、演奏会場の指定、演奏すべきジャンルに(たとえば特定のダンスナンバーを必ず演奏しなければならない等)制限を受けた。この制限から逃れるために3人は当時多くの若いブルースバンド、ロックバンドがひしめき熱気があったベルファストを皮切りに、ロンドンやハンブルグに住んでギグを続け、アイルランドの枠から外へ飛び出した。だがレコード会社がローリーに押し付けたアルバムデビューの条件は、あとの2人を切り捨てること。用意されたベルファスト出身のリチャード・マックラッケン(ベース)、ジョン・ウィルソン(ドラムス)とメンバー交代して出した2枚のアルバムは英国チャート10位入りを果たし、シングル「What's Going On」は西ドイツ他で1位を記録。クリーム解散コンサートの前座、さらにブラインド・フェイス結成北米ツアーにエリック・クラプトン、ジンジャー・ベイカー、スティーヴ・ウィンウッドらと同行した。だが契約書にサインできる法定成人年齢(21歳)に達していなかった3人は北アイルランド人のマネージャー/プロモーター、エディ・ケネディに金銭的に搾取され続け、ギターアンプも買い替えられないほど金欠だった。(「ロックの要」という番組の中でやはりアイルランド人のギルバート・オサリヴァンについて、あれだけヒットを連発したのに英国人マネージャーに搾取されて貧乏だったというようなことを言っていた。)ローリーはバンドリーダーとして事態を打開しようとケネディに度々掛け合うが、ケネディはあとの2人に「ローリーは稼ぎの全額を自分が取り、その中から君達に給料を出す気だ」と言い、3人に不和が生じた。ブルース志向のローリーに対しジャズ志向だったジョン・ウィルソンのリーダーシップを巡る敵対的インタビュー発言もあり、彼との確執をローリーは死ぬまで根に持ち、90年代になって再会を求めてきたウィルソンの申し出を何度も拒絶したようだ。ローリー・ギャラガーというと「礼儀正しく親切」「ファンと友人を大切にする」という面ばかりが強調されてきた(周囲の誰もが彼は「天使のように」善良な人間だったと認めていることは事実だ)が、この不幸な出来事以来、ローリーは徹底的に人間不信で、もともとシャイで内向的な性格のせいもあり、弟ドナルの他は誰も自分のそばに寄せつけたがらず、人の意見や指図を受け入れない頑固な人間になったという。テイスト解散後にもローリーの同意なくライブアルバムが2枚(北アイルランドのレコード会社から出たオリジナルメンバー時代のデモテープ集「In the Beginning」を含むと3枚)ケネディの手で追加リリースされたが、テイスト時代のいずれの売上げからも---CDで再リリースされてからも2000年代に至るまで、彼らには1ペニーの印税も入らなかったという。独立して自分の音楽の著作権を自分でコントロールするためにストレンジという会社を起し、自分でバンドを雇って給料を払い始めた時、彼はまだ22歳だった。彼は何事も自分ひとりで決めたがり、マネージャー役の弟と人前でもしばしば言い争ったようだ。テイスト解散に前後してレッド・ツェッペリンのマネージャー、ピーター・グラント(「レッド・ツェッペリン 狂熱のライヴ」参照)がローリーのマネージメントをしたいと幾度か申し出た。もしこのオファーを受けていたら---彼を適切にコントロールでき、業界でも有力な人物がマネージャーに付いていたなら彼はどこまで大物になったか知れず、それがローリー・ギャラガーの悲劇だったと、彼の死後に評されることになった。ギャラガー兄弟が後にケネディ(とその遺族、エディ・ケネディ自身は85年死亡)を相手取り起こした訴訟は92年まで尾を引き、その心労が一因となって80年代以降ローリーの健康とレコーディング活動に陰りを落としたとの見方もある(Colin Harper, Trevor Hodgett, Irish Folk, Trad & Blues: A Secret History, Cork 2004)。

エメラルドという北アイルランドのレコード会社(今も健在)から1974年にローリーに無断で出されて、やがて廃盤になったLP「In The Beginning (Early Taste of Rory Gallagher)」のジャケット2種。左のストラトキャスターのボディの中にローリーの顔をデザインしたジャケットがオリジナルで、今もたまに海外のオークションサイト等に出回るが、右のアイルランドの地図の中にローリーの顔をデザインしたジャケットは、日本ポリドールが出した日本発売盤のみで、欧米のコレクターが探しているが滅多に出てこないらしい。私は新宿の中古レコード屋のセール品ダンボール箱の中から、かんじんのジャケットがカビで多少傷んではいたものの、たった税込み315円でこれを見つけちゃって、ヨーロッパのコレクターの友人に何だか申しわけない気分になってしまった。

ロリー・ギャラガー ライヴ・アット・コーク・オペラ・ハウス Messin' with the Kid: Rory Gallagher Live at Cork Opera House 1987年コーク市内で収録のRTE(アイルランド放送)制作で、ローリーの死後1996年にVHSとレーザーディスクが日本でも出た(写真左、旧タイトル「ロリー・ギャラガー/ライヴ・イン・コーク」)が、2006年には決定版ともいえるオフィシャルDVDが発売された(写真右)。オフィシャルDVDのメイン内容はRTE制作の「Messin' with the Kid」のままで同じだが、アーカイブ映像や多数の写真、新聞や雑誌の切り抜きやフライヤー(チラシ)の画像、コーク市内のローリーに縁のスポットをイラストや写真と文字情報で立体的に紹介して世界中のローリー・ファンをコークに行ってみたい気分にさせる3-D画像のツアーガイドなど、DVDならではの多くのオマケが付いて大変凝っており、特典映像は2000年にアイルランド国内で放送されたテレビ番組「アウト・オブ・アイルランド ヒストリー・オブ・アイリッシュ・ロック From a Whisper to a Scream」からローリーに関する部分を再編集したもののようで、番組に登場したボノやジ・エッジ(U2)の他に、スラッシュ(ガンズ&ローゼス)、ジョニー・マー(ザ・スミス)、その他番組には出てこなかったインタビューやライブショットも追加されている。それにしても感心するのは、ローリーがほんの子供の頃からの写真や小さな記事の切り抜き、初めてイギリス本土に渡った時のフェリーの切符の半券や宣伝チラシなど、よくまあ何でもかんでも残しておいたものだ。その一部はローリーのツアーマネージャーでもあったロンドン在住の実弟ドナルがスクラップ帳を作って保存していたようだが、ずっとコークに住んでいた母モニカが2005年に亡くなり、ローリーが8歳の時に初めて買ってもらった無銘のアコースティックギターをはじめ“自慢の息子”の多くの遺品が、母の寝室を出て公開に至った様子だ。コーク市立中央図書館の分館であったコーク市立音楽図書館が「ローリー・ギャラガー・ミュージック・ライブラリー」の看板を掲げるなど、ローリーの名声がコーク市の“観光資源”として扱われることが顕著になったのは2000年代に入ってからのことだが、彼の100丁を超えるギターや古いアンプのコレクションはロンドン某所にあって、例のストラトキャスターも本物は特別の機会にしか里帰り公開されないらしい。
だが、CDに付いてくる写真や「アイリッシュ・ツアー1974」でしかローリーを見たことがない人の目には、ここに登場する彼は別人のように太っていてがっかりするかもしれない。元々の番組「Messin' with the Kid」の冒頭タイトル映像(わずか10秒ぐらいだが実写とアニメの組み合わせで出来が良い)が10年ぐらい前のスタイルの良いローリーの映像を使っているので、なおさらギャップが大きい。このDVDの出版元はローリー自身が生前に設立したレコード会社カポ(今は弟が経営しているのだと思う)だが、なぜ87年のこのタイトルにこだわるのか私には理解できないし、昔からのファンの多くが疑問に思っているのではないだろうか?全盛期から10年も過ぎて姿は太り、逆に声は細ったローリーのライブをこのDVDで初めて見る人は「なんだローリー・ギャラガーってこの程度か」と誤解しそうだ。音楽雑誌のレビューには良いことが書かれるだろうし、昔のファンは懐かしさから買うだろうが、このタイトルで新しいファンを獲得できるとは思えないのだ。コンサート内容は決して悪くはない。だが「全盛期のローリー・ギャラガーはこんなものじゃなかった。そりゃもうカッコ良かったんだから!」と声を大にして言いたくなる。・・・で、かんじんの内容だが、「アイリッシュ・ツアー1974」と違って親子連れも目立つ客席は落ち着いて見えるが、アコースティックセット中にひとりの男がステージに駆け上がり、誰にも止められずに演奏最中のローリーに何か耳打ちし、ローリーがそれにうなずくという彼の故郷の町ならではの珍シーンも。ベース:ジェリー・マカヴォイ、ドラムス:ブレンダン・オニール(ベルファスト出身でジェリーの高校時代からのバンド仲間)、ハーモニカ:マーク・フェルトハム(1955年ロンドン生まれ)。
ローリーは晩年(?)はダブリナーズ、フィル・クールター、デイヴィ・スピレーン等アイルランドのミュージシャンともよくセッションした。またこの頃からライブでアイリッシュ・トラッド「She Moves Thru' the Fair」をレギュラーで弾いたり、本来はアメリカの黒人フォーク&ブルースシンガー、レッドベリーの曲であり、ジェシー・ジェームズやバッファロー・ビル、バンカーヒルなど西部劇中の固有名詞が歌われる「Out on the Western Plain」を、ローリーは「ケルティック・テューン」と紹介したりしている。後の94年夏〜秋の欧州ツアーでは「Out on the Western Plain」の前後にアイリッシュ・トラッドをメドレーで演奏し、鼻歌程度だがアイリッシュの歌詞で歌ったりもした(私は曲名がわからない)。彼のアイルランド回帰の思いは死期が近づくに従い募っていったようにも感じられる(この下の「Inheritance of the Celts」の項参照)。だがそのことがアイリッシュ・トラッド・ミュージックの今日的な隆盛の先駆だったとは思えず、ローリー・ギャラガーとアイリッシュ・トラッド・ブームとは互いに無関係だと思う。ローリーの場合は、ホームシック---健康状態の悪化と独身で自分自身の家族を作れなかった(息子が欲しかったと心情を漏らした晩年のインタビューが残っている)という個人的で消極的な理由からの、後退的なアイリッシュ回帰としか思えないのだ。だがまた一方で、遡って74年の初来日公演で既に「As the Crow Flies」の中間に完全なアイリッシュ・トラッドのメロディを挟み込んで弾いたりしたことも事実で、またその部分が特にノリが良くて、当時まだアイリッシュ・トラッドに馴染みがなかったはずの日本人の客席が大いにわいて満場の手拍子になる様子が、客席からの隠し録りでCD化されている。(これはトーマス・ムーアの「The Last Rose of Summer」のメロディで、自分も奇妙に感じたが客席の日本人も妙な顔をしていた、というようなことを弟でツアーマネージャーだったドナル・ギャラガーが30年後に言っている(英国の雑誌 Guitar & Bass, Vol.16/No.4, 2005)。この話がドナルの記憶だけなら正しいかわからないが、このメイド・イン・ジャパンの××盤は「Lost Show」等のタイトルで欧米でも出回ったので、ドナルが最近それを聴いた可能性もないとは言えない。)ローリーがよく使うオープンチューニングについて自ら「ケルト族風の曲で使うGを含んだDチューニング」(『ブリティッシュ・ロック・ギター1:YMMプレイヤー』1978年4月臨時増刊号)と説明したり、後の94年にも富岡秀次氏のインタビューに答えて「僕はアイリッシュだから」演奏の70%は通常と違うチューニングで弾くと言っていた(『レコード・コレクターズ』1994年10月号)。後にローリー・ギャラガーの音楽性について「ケルティック」の語で解説した評論を見かける(私などは違和感を覚える)のだが、それはたぶん77年頃のダン・ヘッジスのロングインタビューにローリー自身が次のように答えたせいだろう。「過去に経験したいろんなものが心の中にとどまっていて、それが自然な形で出てくることがあると思うんだ。たとえば、ケルト族の音楽の微妙な要素や、昔の記憶として残っているスコットランドとアイルランドの古代のパイプとハープの曲なんかがあちこちに現れて、それが普通のブルース・ロックのアプローチとは対称的な面白いものをもたらしてくれるようにね。アイルランドで育った人なら解ると思うんだけど、あそこじゃ、どこに行ってもあの種の音楽が聴こえるんだ。学校のバンドでも、イースター・サンデーの路上でもどこでもね。だから、そんなのが無意識のうちに出てくるんだ。アイルランド人が歌う方法っていうのは、まず曲を作って、それを構成して、チューニングして詩をつけるという手順で、僕もこれに影響受けてるけど。そんなわけで僕は、イギリス人のギタリストとは違ったようになると思うんだ。彼らはそういうことやらないもんね。僕の音楽傾向の主なものというのは、アメリカン・ミュージックから来てるんだけど、チューニングとフレーズにはしばしばオールド・ケルト族の香りがするだろう?」(前掲『ブリティッシュ・ロック・ギター1:YMMプレイヤー』、今読むと少しヘンテコな訳文だが1978年当時のまま)。

アウト・オブ・アイルランド ヒストリー・オブ・アイリッシュ・ロック From a Whisper to a Scream ヴァン・モリソンとロリー・ギャラガーで本格的に始まったアイルランドのロックとポップスの歴史を概観する、RTE(アイルランド放送)2000年制作のドキュメンタリーで、内容は深くはないが見応えがあり、豊富なライブ映像やインタビュー映像、1950年代からのアイルランド(主にダブリン)の風俗を写した記録映像がファンには嬉しい。「フットボール選手かカウボーイになりたかった頃もあったけど、6歳の時には音楽の道を選んだ」と言うローリーの1972年コーク市内でのインタビュー映像、ワイト島フェスティバルの他テイスト時代の複数のライブ映像の断片、1977年ロックパラスト(この3つ下の項参照)で「Bullfrog Blues」演奏シーン、アコースティックナンバーを弾くスタジオライブ映像、半ズボンの子供時代からマッシュルームカットのショーバンド時代の写真、彼にしては珍しいアイドル風のポーズをとったブロマイド用写真まで、また彼の葬儀のニュース映像も見られる。

Inheritance of the Celts 1994年10月フランスのロリアンで開催、“エレクトリック・ケルティック・ハープ”を弾きながらブレトン語で歌うアラン・スティーヴェル、大御所チーフテンズ等ブルターニュ、アイルランド、スコットランド、ウェールズ、ガリシア、アメリカ、カナダから“ケルト系”ミュージシャンが集合した「インターケルティック・フェスティヴァル」。2002年にDVD(日本国内仕様の機器ではかからない)。マーティン1本で「Out On the Western Plain」、またブルターニュのギタリストDan ar Brazとのセッションで「Don't Start Me Talkin'」。おそらく市販で最後のライブ映像。「アイリッシュ・ツアー1974」とは別人のように衰えた。またそれ以上に、ギターの演奏ミスも目立つので全盛期からのファンは見るのがつらくなる。
同年7月に彼は、77年ロックパラスト以来の親友でケルン在住のカメラマン、ルディ・ゲーラックが彼に電話をかけてくるのがあと1分遅かったら、ロンドンのアパート高層階の窓から飛び降りていたところだったという。ローリーは92年、ジェリー・マカヴォイとブレンダン・オニールが去った後の新編成バンドのデビューになるはずだったステージに、薬とたった1杯のブランデーを同時に飲んで上がったせいで昏倒。それを「泥酔してステージに立った」と新聞に叩かれ、それ以来ロンドンではステージに立てば喝采ではなく罵声を浴び、ギグの場を失い、海外ツアーやフェスティバル出演の直前キャンセル(彼がキャンセルするのではなく、主催者側から出演を断ってくるのだ)も目立つようになっていた…。アルコール依存から立ち直った経験がある友人ルディとの電話でローリーは、自分は人々を充分楽しませてきたはずだが、しばしばライブの最中に自分自身がエクスタシーに達していたことに、アイリッシュ・カトリックである自分は罪悪感を抱き続けてきた。もし神様のお許しがあって自分に時間と才能が残されているのなら、あと2枚のアルバム---その1枚はケルティックルーツのトラディショナルやフォーク集を作りたいと言ったそうだ(Daniel A. Muise, Gallagher Marriott Derringer & Trower, Their Lives and Music, Milwaukee 2002)。2003年リリースのアコースティックアルバム「Wheels Within Wheels」は弟ドナル・ギャラガーが、ローリーの膨大な録音ストックの中に埋もれていたバート・ジャンシュ、マーティン・カーシーらとのセッション・テープを集めて、兄の遺志をひとつの形にした試みだった。だがローリーは60年代アイリッシュフォークの旗手であったアン・ブリッグスとのセッションを切望し、自分の「She Moves Through the Fair」などのデモテープを彼女に送ったが、ローリー・ギャラガーはたかが落ちぶれた商業主義のロックミュージシャンだという思い込みを棄てなかったブリッグスに無視されて実現しなかった(Colin Harper, Trevor Hodgett, Irish Folk, Trad & Blues: A Secret History, Cork 2004)。ローリーは20代の全盛期には世界中を駆け巡り年間200ステージ以上こなした(テイスト時代には「年に340日働いた」と、このずっと下の「Houston 1985」収録のインタビューで彼自身が言っている)というワイルドな生き方からは想像できないが、じつは飛行機恐怖症に悩まされ、「アイルランド人にありがちな」「母親譲りの」迷信深さ、縁起かつぎ、薬好き、医者の言うことを鵜呑みにする癖があったと言われ、彼が肝臓を壊して死んだのは酒のせいではなく、無制限に薬を処方した医者の責任だと弟ドナルは主張する(Muise前掲書)。

Live in the Savoy ブートレッグなので、普通のレコード店やアマゾンでは売っていません。1972年、リムリック(アイルランド)のサヴォイ劇場でのコンサート5曲と、合間にローリーの実家があるコーク市内や郊外で撮ったインタビューを挿入した、RTE(アイルランド放送)のテレビ番組、25分。ベースはジェリー・マカヴォイ、ドラムスはウィルガー・キャンベルの代わりに助っ人で来た当時まだキリング・フロア在籍中のロッド・ディアース---「ウィルガー・キャンベルはvery very sickで来られない」とこのコンサート中にローリーが言い訳しているが、実際にはウィルガー・キャンベルは私生活の問題(彼は結婚して子供もいた)などからロンドンを離れるツアーが嫌になりヒステリー症状が起きたらしい。ピアノのルー・マーティンはまだ加入していない。インタビューシーンの一部は「アウト・オブ・アイルランド ヒストリー・オブ・アイリッシュ・ロック」にも再利用されているが、インタビュアーの姿と声は入らず終始ローリーの姿と声だけを追い、アップテンポな演奏シーンとの絶妙なカットバック、またライブシーンでは客席の若者達ひとりひとりの風俗や表情をよく捉え(「Bullfrog Blues」を聞きながらマリファナ吸ってるヤツも)、興奮して思わず躍り上がる若者と、すかさず飛んできて「席に座れ!」と命令する背広姿のおじさんなど、後に「アイリッシュ・ツアー1974」でトニー・パーマーに真似されたのではと思われる。アイルランドの地方都市のホールは当時何処も、興奮した客席が飛び跳ねると建物が揺れたと伝えられており、建物の管理者側がロックコンサートの度に客を座らせるのに躍起となったのはいたしかたないようだが、それがカメラに収められると、若者達を抑圧しようとする体制側のオトナ達、という象徴的なシーンになる。コンサートシーンの迫力はトニー・パーマーの劇場公開用映画「アイリッシュ・ツアー1974」に負ける(トニー・パーマーは音と映像を別撮りで後から編集している)が、ローカルテレビ局の仕事としてはじゅうぶん立派なドキュメンタリー作品に仕上がっており、こっちの方が「元祖ロリー・ギャラガー アイリッシュ・ツアー」と呼べるんじゃないかというほど。

Me And My Music ブートレッグなので、普通のレコード店やアマゾンでは売っていません。1977年、RTE(アイルランド放送)テレビの30分番組。スタジオライブで、バックバンドも司会者もなく、演奏も番組進行もステージ上のローリーひとりでやる。6曲全部アコースティックで、「Secret Agent」のナショナル・スライドバージョン、「Going To My Hometown」のマンドリン・ソロバージョンという珍しい演奏も。「アウト・オブ・アイルランド ヒストリー・オブ・アイリッシュ・ロック」の中で一部紹介されている。

Rory Gallagher (Live in Macroom 1978) ブートレッグなので、普通のレコード店やアマゾンでは売っていません。ドイツのテレビ番組で、主なインタビュー音声にはドイツ語吹替が被さる。ドキュメンタリーだがドラマ仕立てで、遊園地のブランコに乗ったローリーがうっとりと笑顔を見せたり、弟ドナルが運転する車がロンドン市内の有名なライブスポット、マーキークラブのまん前に停車し、降りてきたローリーが「それじゃ俺は先にギターショップに寄って行くから」とセリフを喋り、そこから何ブロックも離れた楽器店まで雑踏の中を誰にも気づかれないかのようにスタスタ歩いて行ったり、へえ、この人ジャスト30歳のこの時期にはアイドルスター扱いに甘んじて、こんなわざとらしいヤラセにも応じていたんだ、と意外な感じがする。レコード会社クリサリスのオフィスでゴールドディスク獲得をシャンペンで祝った後、ドナル、ジェリー、加入したばかりのテッド・マッケンナ(ドラムス)とともに飛行機でホームタウンのコークに向かう。「Brute Force and Ignorance」のリハーサルシーンではローリーの珍しくルーズな演奏が聴ける。そして78年6月24日、マクルームでの野外コンサートなのだが、アイルランドなまり丸出しのファンにインタビューするとなぜか「It's a Long Way to Tipperary」の大合唱になっちゃったり、会場から2キロ離れた家ではアイルランドの伝統的な結婚式の最中だった・・・とかいってほとんど無意味に地元の人々のアイリッシュダンスシーンが挿入されたり。コンサートシーンはあまり見ごたえがない。(私の持っているソースは冒頭から35分ぐらい、ライブが始まってわりとすぐ中断してしまうから、本当のところはわからない。)

Aspects Of Rock ブートレッグなので、普通のレコード店やアマゾンでは売ってません。1972年「Live In The Savoy」の続編みたいなRTE制作のドキュメンタリー番組で、1979年6月16日にアイルランドで放送された。まず最初に前出サヴォイのステージから「Tore Down」のライブ映像を挿入。続いてスタジオでデヴィッド・ヘファーナンがローリーの生い立ちや経歴を説明、ダブリン・ナショナル・スタジアムでの(前年78年12月末と思われる)コンサートの準備光景、そしてライブシーンは「Too Much Alcohol」と「Out On The Western Plain」、じっと聴き入る女の子たちの客席ショットを挟みながらのアコースティック2曲。最後に「Tattoo'd Lady」の後半が流れるが、ギターソロのアドリブがすごい。

All Right Now ブートレッグなので、普通のレコード店やアマゾンでは売ってません。 スコットランドのテレビ番組で1980年グラスゴーのスタジオライブ。なんと、今じゃ渋い演技で有名な俳優ビリー・コノリーが長髪(カツラ?)で司会だ。

Rory at Midnight ブートレッグなので、普通のレコード店やアマゾンでは売っていません。1984年ベルファスト、アイリッシュツアー1974が収録されたのと同じアルスターホールでのライブから編集された50分のテレビ番組。ローリーは第2の故郷ともいえるベルファストで水を得た魚のように元気でステージ狭しと駆け回る。今では考えられないほどセキュリティがルーズで、見ているこちらがはらはらするほど、客が次から次へとステージに上がってきてローリーに飛びかかり、演奏中の彼の首に腕を巻きつけたり、長々と彼にキスしてローディのトム・オドリスコールに引き離されるおばさんまで出る始末だが、ローリーはいやな顔ひとつしないで、高さの低いステージのへりに彼の方から進んでいって狂乱状態の客席上に身を乗り出す。それでもエスカレートする客の襲撃を避けてか、ラストの「Shadow Play」では積み上げられた機材のてっぺんに立ってストラトを弾きまくる。ベース:ジェリー・マカヴォイ、ドラムス:ブレンダン・オニール、ふたりともベルファストのカトリック地区の同じ高校出身。

Live Aid 1986 ブートレッグなので、普通のレコード店やアマゾンでは売っていません。1985年に世界中をあっと言わせたボブ・ゲルドフ等の第三世界貧困救済チャリティコンサート「ライブ・エイド」(「アウト・オブ・アイルランド ヒストリー・オブ・アイリッシュ・ロック」参照)を真似たみたいな形で翌86年5月17日、アイルランド国内の失業者救済コンサート「セルフ・エイド」が、U2、ブームタウン・ラッツ、シン・リジィ(当時フィル・ライノットはいないがゲイリー・ムーアがいた)、ポーグス、チーフタンズ、デ・ダナーン、クラナド、エルヴィス・コステロ、ヴァン・モリソン、ポール・ブレイディ、クリスティ・ムーアはじめアイルランド出身の(ヴァン・モリソンは北アイルランドだけど)新旧の主だったミュージシャン総出演で、ダブリン近郊で開催された。それから10年後の『レコード・コレクターズ』1996年10月号に掲載されたロリー・ギャラガー特集の中の山崎智之氏の記事によると、この時のレコード「Live for Ireland」は2枚組LP、1枚物LP、2枚組CD、1枚物CD(日本で発売されたのはU2が歌うボブ・ディランの「マギーズ・ファーム」で始まる1枚物CDだけだと思う)の4種が出され、2枚組LPにだけローリーの「Follow Me」1曲が収録されているとのこと。以後10年間私はこの2枚組LPをずっと探し回ったが、そのLPの発見に先立ってオランダから入手できた映像(VCD)は、1曲だけでなく4曲入りだった!LPに収録された1曲目の「Follow Me」はギターのチューニングが甘く音程が狂ってじつはあまり良い演奏ではない。もちろんLP(根性で後に見つけた!)はそれなりに音が良く、当時のアイルランドのテレビから素人が録画したビデオテープの音をさらにデジタルファイル化し圧縮したVCDの貧弱な音とは比べ物にならないのだが・・・。ローリーの本領が発揮されるのは2曲目のブルースナンバー「I Wonder Who」から。RTE(アイルランド放送)のチャリティ付き実況中継番組だったようで、演奏中にも「現在寄付金額何ポンド、オークション何ポンド、雇用の申し出が何社何人分に到達、寄付申し込みの電話番号は・・・」などといったテロップが画面下方に刻々と出る。このVCDは欧州で「Live Aid」のタイトルで出回ったが、正しくは「Self Aid」またはレコードと同じく「Live for Ireland」とすべきものだ。

The Late Late Show ブートレッグなので、普通のレコード店やアマゾンでは売っていません。1995年6月、ローリーの訃報の翌週に、RTE(アイルランド放送)テレビで急きょ放送されたトリビュート番組の一部。88年2月に同局が放送した「The Late Late Show」というスタジオ収録番組から「Out On The Western Plain」の演奏とインタビューの場面が流される。

Rock At The Lough ブートレッグなので、普通のレコード店やアマゾンでは売っていません。 1989年7月、北アイルランドのバリーローナン、ネイ湖畔で開催された野外フェスティバルを手持ちビデオカメラで記録した88分のオーディエンスショット。久しぶりに「Cradle Rock」が演奏されるが、この曲にはやっぱり若さという武器が必要だったようだ。歌詞を憶えていなくてところどころ途切れる。ブレンダンのドラムソロとジェリーのベースソロが頼りだ…。「ロック・アット・ザ・ロック」というわけで、コンサート中盤には黄昏のロック・ネイ(ロックloughはアイルランド語で湖のこと)も撮影されている。

Extraspat In Concert ブートレッグなので、普通のレコード店やアマゾンでは売っていません。1994年8月21日シュトゥットガルトでのコンサートから9曲を収録。体調悪くて89〜93年には年間20日前後しかライブをやらなかったが、94年には再び精力的にヨーロッパツアーをしている。人気も演奏力もガタ落ちだったと言っても、90年代のライブビデオは意外と(ビデオの普及で当然といえば当然)多く残っているのだが、その中で最も感動的な1本だと思う。1曲めの途中でいきなりマイクスタンドにでもぶつけたか、右手の甲の中指の付け根あたりが大きく傷ついて血が流れ出る。合間にバンドエイドを貼りに戻るでもなく、そのまま2曲め、3曲めと、時々ジーパンのお尻で拭って、なお血を流しながら弾き続けるローリーの右手が、クローズアップで執拗に映し出される。凄まじい映像だ。伝統的なキリスト教文化の中で育った人はこれを見てスティグマ(聖痕)という言葉を思い浮かべ、ローリーをカトリックの聖人や殉教者と結びつけたがるのかもしれないが、もともと彼は右手のアップがじつに絵になるギタリストだった。「Bye Bye Bird」ではマーク・フェルトハムとハーモニカの二重奏。1本のマイクで歌とハーモニカが交差する(力強い肺が必要な)この曲は、テイスト時代の1968年マーキー(ロンドン)でのライブ録音しか、私は他に聴いたことがないが、いまだ挫折の経験のない勇敢な20歳の若者だったローリーの元気な歌声と、打ちひしがれた心の底から必死で絞り出すような26年後のしゃがれ声を聴き比べると、人間は死への長い坂道を、ある者はゆっくりとペースを保ちながら、ある者は彼のように無茶して駆け足で下って行くのだと思わされる。弱冠24歳にして彼の生涯のベストアルバムと評判の高い72年の「Live In Europe」に収録され、このコンサートでは歌われないが94年の他のコンサートでよく歌われた(次項の「Celtic Festival」でも歌われる)ブルース「I Could've Had Religion」についても同じことだ。上掲「ライブ・イン・コーク」で触れた、間に「Out on the Western Plain」を挟むアイリッシュ・トラッド・メドレーが収録されている。また「I Wonder Who」の熱唱の合間に、キーボードのジョン・クックをローリーは「心理セラピー担当」と紹介する。同じアイルランド人のジェリーやブレンダンには心を閉ざして話せなかったようなことを、彼はジョン・クックになら話すことができたのだろうか?(ジョン・クックはもしかしたら歴代のバンドメンバーで唯一ローリーより年上だったかもしれない。未確認。)

Celtic Festival 1994 or Last Concert Tour 1994 ブートレッグなので、普通のレコード店やアマゾンでは売っていません。上掲の公式発売された「Inheritance of the Celts」ではローリーは2曲しか登場しないが、実際にはフランスのテレビ局が収録した1994年10月20日、全15曲演奏の100分のDVDが存在する。「ラスト・コンサート・ツアー」のタイトルで出回ったが、実際にはこの後95年1月のオランダが最後のツアーになる。音源については、95年1月6日エンスヘデ(オランダ)での11曲の素晴らしい録音が「Last of the Independants」のタイトルで出回っているが、映像ソースは今のところ、このケルティック・フェスティバルより後のものは見つかっていない。ローリーらしくなく曲と曲の合間の喋りが冗長で、以前のように歯切れよい早口ではなく何だかたどたどしい。歌詞をど忘れし笑ってごまかすことも一度ならず。だが何よりも、チューニングを変えるのを忘れて「Moon Child」のノンストップ・リフを弾き始め、修復できずに不協和音のまま無理やり最後まで行ってしまったのはNGだ。78年アメリカツアーなど彼は演奏が雑な時期もあったが、まずいと思ったら演奏を中断して最初から弾き直したり、喉の調子が悪く思いきり調子外れのガラガラ声でも、それがむしろブルースを歌うにはセクシーでカッコ良く聞こえ、「ローリー何やってんだよー」みたいなアメリカ人の不躾な野次も含めて、それなりにスリリングで楽しめた。ここでのローリーは精神的にも確かに変だし、まともに見ていられなくなるほど痛々しい。客席最前列の暖かげなまなざしも、いたわりと憐憫の表情なのが悲しい。だがブルースナンバー「I Wonder Who」の熱演、アンコール「Don't Start Me Talkin'」(地元ブルターニュのギタリストとの共演)でのリラックスした好演、そしてアコースティックセットの「Walkin' Blues」〜ボブ・ディランの「Don't Think Twice, It's All Right」メドレーと、20年前のオリジナルナンバー「A Million Miles Away 100万マイルも離れて」は美しい。「アイリッシュ・ツアー1974」でも印象的に使われていたこの曲が、8ヶ月後には彼の葬送の曲になることを知っていて聴くせいかもしれない。マーク・フェルトハムのハーモニカ・ソロを慈しみの目で見守るローリーの姿が何度も映される。後にローリーが危篤に陥った時、弟ドナルはマークを病室に呼んでハーモニカを吹かせた。イギリス人のマークだけが呼ばれて、自分やブレンダンはローリーが入院したことすら直接には知らされなかったことで、ローリーのバックバンドを20年以上務めたジェリー・マカヴォイはドナルに多少恨みを持ったようだ。彼の枕元にはボブ・ディランの伝記本と、ディラン自身から届いたお見舞いカードが置かれていたという。(ローリーの最後のオランダツアーのことは、うわさ話の最後の方にも少し書きました。)【マン】

*この項目は2007年1月に内容を整理し、ロリー・ギャラガーのために新たにインデペンデント・サイトを立ち上げました。
Checker & Blues: a small site for Rory Gallagher (www.ne.jp/asahi/checkerandblues/rory/)


Gallagher's Blues: A Requiem for Rory
1995年 北アイルランド 35分
ジョン・ウィルソン(元テイスト) ジェリー・マカヴォイ(元ロリー・ギャラガー・バンド) ブレンダン・オニール(元ロリー・ギャラガー・バンド) ロニー・ドリュー(ダブリナーズ) アダム・クレイトン(U2) ヴィヴィアン・キャンベル

アイルランド人初のロックスター、ロリー・ギャラガーの死(1995年6月14日)から短期間のうちに、北アイルランドのU-TVで放送された追悼番組。「アイリッシュ・ツアー1974」のライブシーンの撮影もされたベルファストのアルスター・ホール---空っぽのホールを撮影した映像(とても古めかしくて狭いことに驚く)から、ローリー・ギャラガー、エリック・キッタリングハム、ノーマン・デイムリーの3人の若者がコークからベルファストにやって来て、ラドー・クラブ(メリータイム・クラブ)などで当時、同業者組合では掟破りとされていたスリーピース・バンドとして活躍を始めたことが語られる。テイストのベルファスト時代の映像はさすがにほとんど残っていないので、スティル写真だけなのだが、南のアイルランドのRTEやドイツのWDRなど、ドナル・ギャラガー氏が関わって制作された他のトリビュート番組ではお目にかかれないような、北アイルランド独自の蔵出し写真も出てくる。ベルファストの街路で爆弾を仕掛けられた車が爆発する瞬間の実写フィルムにも驚く。こんなのはIRAの当事者でないと撮影できなかったはずだ。ジェリー・マカヴォイ、ブレンダン・オニール、テイストのドラマーだったが当時ローリーと軋轢があったともいわれるジョン・ウィルソン---いずれもベルファスト出身の3人が詳しい話をする。(スミマセン、英語力がなくて話の内容がほとんど聞き取れない。)コーク市内のカトリック教会で行われたローリーの葬儀の映像も、参列者の中にゲイリー・ムーアの姿を捉えたり、短いが鮮明なものを見せる。老いて長男に先立たれた母モニカが両手で顔を覆って泣き崩れる映像には胸が痛む。【マン】


アウト・オブ・アイルランド ヒストリー・オブ・アイリッシュ・ロック From a Whisper to a Scream
2000年 アイルランド 158分
デヴィッド・ヘファーナン監督 ヴァン・モリソン ポール・ブレイディ ボブ・ゲルドフ ボノ エッジ ナイアル・ストークス(Hot Press誌編集長) ジム・シェリダン(映画監督) ビル・ウィーラン(リバーダンスの作曲家) ドナル・ギャラガー(プロデューサー、元ロリー・ギャラガーのマネージャー) ポール・マクギネス(元U2のマネージャー) デイヴ・ファニング(司会者) パット・マッケイブ(作家) ドナル・ラニー シンニード・オコナー モイラ・ブレナン

ヴァン・モリソンとロリー・ギャラガーで本格的に始まったアイルランドのロックとポップスの歴史を概観する、RTE(アイルランド放送)制作のドキュメンタリーで、内容は深くはないが見応えがあり、豊富なライブ映像やインタビュー映像、1950年代からのアイルランド(主にダブリン)の風俗を写した記録映像がファンには嬉しい。1950年代のアイルランドにはもっぱら伝統的なダンス音楽を演奏するケイリーバンドと英米のヒットチャート中心に演奏するショーバンドの2つの流れがあったが、まず最初にコメンテーターのヴァン・モリソンもボブ・ゲルドフもボノ(U2)も、ショーバンドは外国の真似でアイルランド文化の発展を妨げる有害な存在だったとこぞって全否定する(私はこの意見にはすごい違和感が)。1963年ビートルズのアイルランド公演、またこの頃テレビ放送が始まりアイルランドに変化が訪れる。もともとR&Bが盛んだった北アイルランドのベルファストでヴァン・モリソンがゼムを、また南のコークでは1966年、ローカル・ショーバンド出身(!)のロリー・ギャラガーがジミ・ヘンドリックスに触発されてリードギター、ベース、ドラムス3人編成のテイストを結成、ベルファストを経てハンブルグ、ロンドンへと国外に活躍の場を移す。ダブリンのビートロックは低迷していたが、唯一気を吐いたスキッド・ロウを解雇されたフィル・ライノット(アイルランド人は「リノット」と発音するようだ)がシン・リジィを結成、ダブリナーズらトラッドバンドの定番曲だった「Whiskey in the Jar」をメタルロックにアレンジして、アイルランド国内市場向けに1972年B面リリースしたところこれが受け、以後グラムロックのスタイルでトラッドを演奏するホースリップス、フォークロック系のプランクシティら、ロックと伝統音楽の融合が勢いづいてレコードも内外で売れ、ショーン・オリアダらシンフォニー系作曲家の活躍と相まって、英国で放送されたテレビドラマ「ハリーズ・ゲーム」のテーマ曲でクラナドがブレイクする80年代に繋がってゆく。だが70年代のアイルランドは(英国も同様だが)不況、失業、高税金など経済状況が悪く、稼ぎ頭のシン・リジィも税金逃れのために国外移住。そのうえ1975年ベルファストでプロテスタント過激派によるマイアミ・ショーバンド皆殺し事件が起き、アイルランド初の野外ロックフェスティバルを実現させたロリー・ギャラガーも自身の国内ツアーを中止してしまう。(・・・と、この番組では説明しているのだが、ローリーが恒例にしていたニューイヤー里帰りツアーを中止した事実はないし、アイルランド初の野外ロックフェスティバル、マウンテンデュー・フェスティバルの第1回がマクルーム・キャッスルで開催されたのは1977年6月だから、説明はその事実を無視している。)70年代終わりのパンク・ムーヴメントの中からU2やポーグスが生まれ、アイリッシュロックを取り巻く状況は80年代に劇的に変化する。その頂点がブームタウン・ラッツのボブ・ゲルドフが企画した1985年の「ライブエイド」で、アイリッシュロックに世界が注目するようになる。1986年にはフィル・ライノットが、1995年にはロリー・ギャラガーが、まるでロックスターの宿命であるかのように酒や薬物に起因する破滅的な死を迎えるが(それぞれの葬儀のニュース映像あり)、ウォーターボーイズ、ホットハウス・フラワーズ、シンニード・オコナーら、ギャラガーとライノットの影響を受けなかったとされる新世代のロックが、そして90年代にはコアーズ、クランベリーズ、ボーイゾーン、ウェストライフら世界でもアイドルとして通用するポップグループが登場してくる…。アイルランド国営放送の制作ゆえか、北のベルファストも南のダブリンも同じアイルランドとして同列に扱っているが、南のアイルランド共和国と英国領北アイルランドのベルファストとでは、ロックの歴史が始まる事情も環境も違ったはずだ。北アイルランドのU-TVが1990年代前半に「Rock'n'North」というベルファストの音楽シーンを振り返る番組を放送したらしく、それのDVD化も切望する。(画像はアイルランドで2003年発行の「アイリッシュ・ロック・レジェンド」シリーズ切手。)【マン】


最終監房 A Sense of Freedom
1979年 イギリス 85分 R
ジョン・マッケンジー監督 デヴィッド・ヘイマン アレックス・ノートン ジェイク・ダーシー フルトン・マッケイ ショーン・スキャンラン

グラスゴーのタフなスラム街に生まれ育ったジミー・ボイルは1964年、24歳の時に殺人罪(実在する本人は冤罪を主張)で終身刑を言い渡され、収監された刑務所での暴行虐待に対する孤独で徹底的な反抗、時には仲間を巻き込んでの反乱を繰り返し、「スコットランドで最も危険な受刑者」と言われてスコットランド各地の刑務所をたらい回しにされるが、最後に収監された特別刑務所で彫刻と文章の才能を開花させ、1982年に出所する。彼が獄中執筆した手記をもとにした実話ドラマ---ということで、後年のアイルランド映画「父の祈りを」をも想起させるが、ボイルは政治的背景もなければ獄中から再審請求運動をしたりもせず、ひたすら個人として人間の尊厳、精神の自由を求めて闘う姿が描かれる。全編すさまじい暴力的シーンだが、トーンは不思議ともの静かで、クリス・メンゲスのカメラワークは詩的ですらある。実際にボイルは刑務所間移送の車窓からスコットランドの美しさを初めて知ったという。音楽はロリー・ギャラガーのギターとフランキー・ミラーの歌によるオリジナル曲だけが控えめに、だが印象的で力強く使われている。フランキー・ミラーは1949年グラスゴー生まれ、サッカーは「熱狂的セルティックス・ファン」だとか。パブロック、スワンプロックと呼ばれる通好みの音楽から、1980年代には「Caledonia カレドニア」というヒット曲まで幅広く歌い、スコットランドでは圧倒的な(似たような声で歌うロッド・ステュアート以上の?)人気があったみたい。「Play for Today」というBBCの長寿番組テレビドラマシリーズで「Just a Boy's Game」(1979)の音楽担当だけでなく、本人が主演もした。1994年に45歳の若さで脳出血で倒れ現在リハビリ中、ステージ復帰はまだのようだ。(余談:彼らがサウンドトラックを録音したウェンブリー・サウンドスタジオの上階では同時にクィーンが「フラッシュ・ゴードン」の録音をしていて、休憩時間に互いのスタジオに出入りしたそうだ。)【マン】


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